今年の授業も終わったことだし、今年のことをしっかり振り返らないとね。
まあ今はなにもする気起きないよね。春を満喫しよう。
○自分に新しい題材を、と課した一年だったわけだけど、とっても大変だった。
・今までやった題材もやらないと疲れちゃうのでよくない。
・じっくり練れないまま題材化するので、細かい詰めがいいかげん。(いい意味のいいかげんもあるけどこれはそっちじゃない)
○材料についてもうちょっと幅を出していかないと困っちゃう。
・俯瞰してみてみたら結構材料が被ってた。ちゃんと計画的にいろいろ扱わないと。
○でも、オーソドックスな材料はじっくりたっぷりやりたい。だからもうちょっとじっくりやらないと。
・紙とか木とか、描画材とか。ハサミとかカッターとか、ノコギリとか糸鋸とか、テープと接着剤とかね。(これはたぶん題材がよくなかったと思う。基本はこういう題材のときはなんかつくろう系になるけどね)
○あんまりにこにこ楽しくしていなかった。
・いつも楽しくする。
○余計な仕事をいっぱい拾ってきた。
・安請け合いしない。
○あんまり怒らなかった。
・もっと怒ってよい。
○ものを知らないというのは恐ろしいことだ。どんなに発想が豊かで、鋭敏な思考をもっていてもそれを生かすような方向に持っていけるようなスキルがないということは恐ろしいことだ。
・これは大人を見てもそう思う。何件かの展覧会を拝見して感じたのは、美しいということについて、もののあるべき様について、「わかってない」先生たちが結構多いなということ。それなのにもかかわらず、自分の指導に自信をもって大手を振って図工の先端にいると曰う教員の無知と厚顔がちょっとだけ気になりました。それはまずいんじゃないかな。いろんなものやいろんなことには在るべき姿というものが、あるはずだ。それは美しいということも、醜いということも、相応しいということも、異質だということも、感じさせるような、もともと「それ」がもつ何かだ。普遍性を信じないのか、知らないのか、よくわからないんだけど、それが欠落している指導を今年よく見た。(※とりあえず自分のことは棚に上げています。怒らないでね。)教員のfeelが足らないのである。thinkばっかでね。
例えばなんだけど、椅子をつくらせるとする。そのときに設計図から子供に引かせて一から作り上げることの難しさを学ばせるとする。出来上がってきた作品を見ると板切が加工なくそのまんま使われている。垂木材は足に、ベニヤ板は座面や背もたれに、と見たまんまの特徴を基にして作られている。本当にこれでいいの?子供が「これでいい!」って言ったからこれでいいの?
だめでしょ。
なんかこうなのかな、と思ったんだけど、「子供って本当に素敵でしょ?ね?ありのままで、素朴に見えるけどさ、稚拙?ん〜んこれがいいのよ!子供ってすごい!」と言ってる人の大半はまずもののよさをわからないで指導していると思う。ぜんぜんものについて検討されてない。気付かないんだよねきっと。これってさ逆に残酷なのかも。身体性の教科で〜とかものに触れ合うことで〜とか言ってる割にはそれできてないじゃん。木には木の、よさがあるでしょ。そのものから醸し出されるよさが。金属とは明らかに異なるよさがあるでしょ。なぜそこを味わえるようにもってこないの?feelが足らんし、feelがthinkに応用されてない。
これって実際の授業のなかでの子供と同じなんじゃないかな。どんなに発想があってもそれを生かすスキルがなければ実践的行動として何にも現れないよね。要するに技術がないし、判断材料(つまり知識)も足りてないということだよね。今年の自分の授業を振り返ってみるとそんな様がはっきりと現れていたように思う。例えば持っているスキルで応用可能な題材の場合は伸びやかに表現することができるんだけど、そうじゃないと判断や選択がにぶり、表現についても底の浅い作品しかできない。
図工でいう技能よりももっと広い意味での技能を身に付けさせたい。
感じる→考える、イメージする・発想する、創造する、見つめる、よりよくする、というような一連の造形活動を通じて、擬似的に「よりよく創造する」活動を行うことで幅広い力の礎にしたい。
それは見方を変えれば「汎用的な力」ということもできるし、「学力」だ、ということもできる。そして「学力だなんだとか、そんなことを言わない」こともできるし、そこに「矛盾点を見つけ出す」ことだってできるんじゃない?その人のスタンスしだいだね。
仲間内で喧嘩している場合か!
○プロジェクタの光を直接見ない。
・目の前が1日たってもチカチカするのでやめる。
○理論はいいけど実践は?
・頭でっかちな授業にならないようにしたい。
○片付けをする。
・もくもくと。
以上です。
来年も頑張ろう。